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2020.06/27 更新 地域

ふくべ鍛冶の歴史と移動販売のルーツ

移動販売車

ふくべ鍛冶の初代・干場勇作が鍛冶の修行をおこなったのは、輪島市町野でのこと。修行を終えたのち、明治41年(1908年)7月13日に、能登町の藤波地区で鍛冶屋を開業しました。その後、大正2年(1913年)4月14日には行商を開始。奥能登の各集落へと馬車を曳いて出向くようになりました。集落1ヶ所の滞在期間は数週間ほどだったようで、各集落の農家さんの広い土間を借り、持ち込まれた刃物や農具・漁具などを修理や製造に取り組むスタイルを取っていました。勇作には自分のつくる刃物の切れ味と強度に絶対の自信があったそうで、行商でも自慢の刃物を持ち歩き、「今年はこんなものをつくったぞ」と自慢しながら長丁場の集落めぐりをおこなっていたそうです。

記録によると、店舗のあった藤波地区から県道275号線(与呂見・藤波線)と県道37号線(輪島・山田線)に沿って移動し、輪島市の三井町まで足を運んでいました。藤波から三井町までの道のりは25kmほどで、徒歩だと5時間以上を要します。さらに当時の道は舗装されておらず曲がりくねっていたため、現在の道路状況から考えるよりも時間がかかっていたのではないかと予想されます。

元号が昭和に変わる頃には創業当初と比べて奥能登の人口も増加し、行商をしなくてもどんどんお客様が店に来るようになりました。そのため、行商の回数を減らして能登町宇出津に店舗を構え、現在に至るまで私たちはその場所で商いをさせていただいています。

ところが昭和中期に差し掛かると、第二次大戦後の高度経済成長の波が能登にも押し寄せるようになり、農漁業具の機械化や人口の流出が顕著になります。他の商店と同じように、ふくべ鍛冶でも店舗でお客様を待っているだけでは、それまでのような商いを続けることが難しくなってきました。

またお客様にとっても、若い世代の減った能登において、修理のために道具を店舗まで持って来ることは次第に重荷になっていきます。ご年配の方にとって、重量のある金物を路線バスに持ち込んで店舗まで預けに来て、修理後には再度受け取りに来なければならないことへの負担はとても大きなものでした。お客様から「今年は来ることができたけれど、来年からはわからない…」という声がたくさん聞こえてくる中で、その声をひとつずつ地図の上に記していったところ、ひとつひとつの声は線となり、瞬く間に地図上でつながっていきました。

これは私たちが自ら修理品を取りに行き、また届けにまわった方が理にかなっているのではないかという考えに至り、4代目の健太朗が2015年より始めたのが、能登町内の各集落をまわる「移動鍛冶」です。そしてこの移動鍛冶は、初代・勇作が始めた行商への原点回帰でもありました。時代のニーズに合わせた対応を求められるのが、現代の商売です。未来を見据えた原点回帰で移動販売車を走らせ、これからも地域の要望にきめ細かく応え続けていきたいと思います。